スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

にわかネトウヨが韓国の歴史教科書に学ぶ04【高麗時代】

 高麗時代といえば、日本にとっては元寇が忘れられません。いつも被害者意識ばかり言い立てる韓国が、他国を攻めたことをどう教科書で教えているのか興味伸身宙返りなわけですが、まずは急がずに高麗による後三国統一のところから見ていきましょう。

 後三国統一の意義は、高麗が単純に他の二国を押さえ、勝利を収めたということにあるのではない。これをきっかけに韓民族が完全に政治的、社会的、文化的に統合されたという点で大きな意義をもつ。(p95)

 われわれ日本人は、歴史の「民族的意義」なんてほとんど意識しません。歴史を学ぶ場合は、過去の出来事がなぜ起きたのか、それが後世にどう影響したかという客観的な「事実」を知ろうとします。が、韓国は違うようです。過去の歴史に誇りある意義を見つけようとする涙ぐましい努力が窺えます。
 教科書によると、高麗による半島統一は
  1. 建国の主役が地方勢力であったこと
  2. 高句麗、百済、新羅などの文化を融合して新しい民族文化の土台を築いたこと
 の二つに意義があるそうです。

 新羅の三国統一が民族統一の出発点だとすれば、高麗の後三国統一は【中略】渤海人まで含んだ、実質的な民族統一の完成だった。(p95)

 と誇らしげ。ホルホルというやつですね。
 でも逆にいえば、古代朝鮮は半島内が分裂してる状況が長い間あたりまえだったわけです。南北2国に分裂している現在は、「三国時代よりも1国分少ないんだからまだいいじゃん」という考え方もできそうですね~。

 高麗時代には科挙が取り入れられ儒教が浸透しました。中国から輸入したこの文化が、19世紀になると大きな足かせになるわけですが、当時にしてみれば合理的で最先端の制度・学問だったわけです。高麗は北方では契丹族や女真族と戦いながらも、彼らや宋と活発に交流し、現在に続く「コリア」の名が諸外国に定着しました。

 でも、建国してしばらくすると制度が硬直し腐敗するのは世の習いのようで。

 一部の役人と権勢家は国家から田柴科として与えられた土地を自分のものにしたり、高利貸しなどを通して一般民衆の土地を奪うなど経済的基盤を拡大していった。(p105)

 日本でいうところの地頭みたいなもんですな。
 王室と婚姻関係を結んだ外戚がはびこるのも東アジアでは毎度のこと。外戚の一人、李資謙が王位をおびやかしたり(1126)妙清とかいう坊さんが反乱を起こしたり(1135)。これらの反乱の背景には、低い待遇を強いられていた下層軍人たちの文臣たちに対する不満があったんだそうで、日本でいえば平安末期の武士の台頭を彷彿とさせます。で、ついに武臣が権力を握り、国王は飾り同然になってしまうという、このへんはまさに幕府ですな。
 この武臣たちも農民を虐げたために、各地ではさまざまな民衆蜂起が起きたそうです。
 ま、このへんはワンパターンで面白くない。

 13世紀に入ってモンゴルが勢力を増してきます。高麗は最初、モンゴルに追われて半島に押し寄せてきた契丹族を防ぐためにモンゴルと連合しますが、じきにモンゴルに攻めこまれます(1231年)。

 当時高麗は民衆と官軍が一つになって、モンゴル軍に対抗して戦った。特に、亀州城では朴犀の指揮下にモンゴル軍に対抗し、最後まで城を守った。(p113)

 などと、いかに朝鮮側が善戦したかを強調しています。

 崔氏政権は民心を集め、仏の力でモンゴル軍を退けるため、江華島で八万大蔵経の彫成事業を始めた。八万大蔵経版は対モンゴル闘争の産物であり、私たちが誇る世界文化遺産の一つである。(p114)

 そんなオマジナイしてる余裕があったら武器でも作りゃいいのに、とも思いますが、日本も大仏に国家安泰を祈願したり、外敵調伏の祈祷を密教坊主にやらせたりしてたわけですから、他人のことは言えませんね。

 崔氏政権は江華島に避難しながらも、モンゴル軍の侵入に苦しめられる民衆を無視したまま贅沢な生活をし、政権維持のために租税をさらにかけるなど、無理な政策をとって民心を失った。このようなときに最高権力者崔竩が殺され、崔氏政権は崩壊した。
 モンゴルに対する抗戦を主導してきた崔氏政権が崩れると、モンゴルとの講和が行われた。(p115)

 前のページではモンゴル軍に抵抗する崔氏政権を持ち上げていたのに、すぐドスンと落として「モンゴルとの講和」という流れに持ってくるのは、なかなか戦略的な書き方ですね。
 なんかひっかかるのでウィキ(日本版)のモンゴルの高麗侵攻の項を読んでみました。それによると、要するに高麗朝廷内ではモンゴルへの徹底抗戦を貫こうとする崔氏政権(=武臣)と、さっさと降伏してしまおうとする文臣派が対立しており、崔竩は文臣派に暗殺されてしまったというのが真相。このへんなんか、日本に付くか清に従うかで内紛した李氏朝鮮末期とそっくりです。
 教科書では「講和」と書かれていますが、ウィキによれば全面的な従属です。ごくろうさま。

 元は日本征伐をきっかけに高麗に設置した征東行省を通して、高麗の内政に干渉した。(p116)

 日本人としてはちょっと驚いたんですが、元寇について触れた記述はたったこれだけなんですよね。元と高麗が連合して二度にもわたって日本に攻め込んだくせに、そのことが何も書かれていません。まるで「元が勝手に日本を征伐(←この表現もなんだかね・・・)したんだぜ、おれら関係ねえし」とでも言いたげな、まるきり他人事って立場の書き方です。ここは少しむかついた。
 でも、日本の中学歴史教科書を見たら…元寇の部分では「フビライが攻めてきた」とはありますが、軍勢の中に高麗が加わっていたことは一言も書かれていません。日韓両国で整合性が取れていて結構なことですな。まあ、日本側は当時の高麗はもはや国家として存在していないという認識なのかもしれませんが。

 ウィキ日本語版の高麗の項には、

一方、『高麗史』には忠烈王が元に日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、元軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。

 なんてことも書かれてます。同じく元寇の項を読むと、

 『高麗史』及び『元史』によれば、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、高麗を経由する東路からの日本への侵攻が決定されたとされる。

 忠烈王ひでえ・・・千年恨んでいいですか。
 高麗国の王子は、元に人質に出されます。元で育ち、教育を受け、モンゴル皇帝の王女を嫁さんにもらいます。ウィキによれば、高麗王子は元の宮廷で皇帝に仕え、ほとんどモンゴル貴族みたいになっていたそうです。

 高麗王を継ぐ段になって初めて母国にやってくるわけですが、新しい王様にとって母国の宮廷は知らない連中ばかりなので、人質時代に身の回りの世話をしてくれた身近な家臣を重用するようになります。そういう家臣連中=権門勢族が既得権益を握って幅を効かせるようになり、民衆を虐げて国家財政を圧迫します(ほんと、お決まりのパターンだな。なんか嘘くさいくらい)。
 こうした問題を解決するため、歴代の高麗王は政治・経済制度を改革しようとしますがことごとく失敗に終わります。

 これは高麗の国王が元の操縦や干渉を受けていたので、改革を徹底的に行えなかったからだった。政治勢力がしばしば変わり、改革推進勢力が弱体だったことも、改革が成功しなかったもう一つの原因だった。(p117)

 腐敗していた高麗の家臣たちは悪いけど、改革できなかったのは元のせい、という論法です。この教科書の特徴の一つが、「都合の悪いことはなるべく外国のせいにする」ということです。それが近代史になると露骨になるのですが、まあそれはのちほどまた。

 この時代、元を通じて儒教の一派である性理学(日本では朱子学が有名)が入ってきます。この性理学なるものも、朝鮮史ではかなり重要なキーワードのようですが、これは次回に。
 
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 韓国について
ジャンル : 政治・経済

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
カレンダー
07 | 2018/08 | 09
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
アクセスカウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。